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万延二分判金の表面と裏面。江戸時代後期の金貨で、小ぶりな楕円形。表面に「万延」の文字が見える
江戸金貨古銭ストーリー2026年7月2日

万延二分判金 — 幕末経済危機が生んだ超軽量金貨の悲劇

金純度22.97%、量目3.0g。金流出を止めるための苦肉策が招いた信用崩壊

対象貨幣: 万延二分判金

概要

安政7年(1860年)10月、江戸幕府は突然の大改鋳を断行した。その対象は小判だけではなかった。二分判金もまた、金純度56.77%から22.97%へと劇的に低下させられ、量目も3.75gから3.00gへと削減された。これが万延二分判金である。なぜこのような極端な改鋳が強行されたのか。答えは、幕末日本を襲った金銀比価の歪みにある。開国によって流入した西洋との金銀交換レートの差が、日本の金を急速に海外へ流出させていたのだ。この危機を前に、幕府の勘定奉行たちが選択したのは、金含有量を極限まで削減することで、金貨の国外流出を防ごうという戦略であった。しかし、この「苦肉の策」は、かえって国内経済に混乱をもたらし、小判の種類と相場と同様に、庶民の信用を大きく損なうことになる。わずか9年間の短命に終わった万延二分判金は、幕末という激動の時代が、日本経済にいかに深刻な打撃を与えたかを、その存在そのもので物語っているのである。

基本スペック

額面
2分(小判の1/2相当)
鋳造期間
万延元年〜明治2年(1860-1869年)
金属組成
金22.97% / 銀・銅他77.03%
量目
3.00g
寸法
縦約37mm × 横約21mm × 厚さ約2mm
鋳造枚数
不詳(諸説あり。数百万枚以上と推定)
鋳造責任者
後藤家(金座)/ 江戸幕府勘定奉行
市場相場
80万円〜250万円(状態・鑑定書の有無による。未使用品は500万円超の例も)

第1章 — 開国の衝撃と金銀比価の崩壊

嘉永6年(1853年)のペリー来航を描いた錦絵。黒船が江戸湾に現れた瞬間を表現している

嘉永6年(1853年)、ペリー提督の黒船がもたらした開国の波は、日本の経済秩序を根底から揺るがした。それまで鎖国下で安定していた江戸時代の金銀比価は、西洋の市場原理に直面することで、一転して歪み始めたのである。当時、日本国内では金と銀の交換比率が1:5程度に設定されていたが、国際市場では1:15以上が常識であった。この巨大な格差に目をつけた外国商人たちは、銀を持ち込んで金と交換し、その金を国外へ持ち出すという套利取引を繰り返した。結果として、安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結から万延元年(1860年)にかけてのわずか2年間に、日本から流出した金は数百万両に及んだと推定される。幕府の財政は急速に窮迫し、金座や銀座の役人たちは危機感に包まれていた。この深刻な状況下で、万延元年10月、勘定奉行・水野忠中と老中・安藤信正の指揮の下、大規模な改鋳が決定された。従来の文政二分金は金純度56.77%、量目3.75gという相対的に高品質な金貨であったが、新しい万延二分判金は、金純度を22.97%にまで低下させ、量目も3.00gに削減するという極端な改鋳であった。この決定の背景には、金含有量を低減することで、金貨の国外流出を抑制しようという意図があった。すなわち、金の含有量が少なければ、外国人商人にとって持ち出す価値が低下するという、単純だが絶望的な論理であったのである。しかし、この政策は、江戸金貨の種類と見分け方を大きく複雑化させ、国内の商人たちに深刻な混乱をもたらすことになった。

第2章 — 江戸金座における極限の鋳造

江戸金座の工房風景を描いた図。職人たちが金を計量し、鋳型に流し込む作業が進行中

万延元年10月の改鋳決定から、わずか数週間のうちに、江戸の金座では大規模な鋳造体制が整えられた。指揮を執ったのは、代々金座の長として幕府に仕えてきた後藤家の当主である。後藤家は慶長時代より金銀貨の鋳造に携わり、その技術と信用は江戸時代を通じて絶対的なものであった。しかし、この万延改鋳は、後藤家の技術者たちに未曾有の課題を突きつけた。金純度を従来の56.77%から22.97%へと低下させるということは、単なる素材配合の変更ではなく、金貨としての本質的な価値の喪失を意味していたからである。従来の文政二分金では、金と銀の比率がおおよそ3:2であったのに対し、万延二分判金では金:銀:銅=1:2.5:0.5程度という極端な配合となった。鋳造プロセスでは、まず金地金と銀地金を高温炉で溶解し、指定された比率に従って混合される。この際、温度管理が極めて重要であり、一度の失敗が大量の不良品を生じさせた。江戸金座の工人たちは、日夜この作業に従事し、万延元年から慶応3年(1867年)にかけて、推定で数百万枚以上の万延二分判金を鋳造したと考えられている。鋳造後の金貨は、打刻によって「万延」の文字と花押が刻まれ、重量検査を経て、初めて流通用として認可された。この検査基準は、量目3.00gを±0.05g以内に収めるというきわめて厳格なものであり、後藤家の職人たちの技術水準の高さを証明している。しかし、品質管理がいかに厳密であっても、金含有量の低さという根本的な欠陥は隠蔽できなかった。商人たちは、新しい二分判金の軽さに気づき、市場で試金石を用いて成色を調べ始めたのである。

第3章 — 流通現場の混乱と庶民の不信

江戸の両替屋の店先。客が新しい二分判金を持ち込み、店主が試金石で検査している場面

万延二分判金が市場に流通し始めると、すぐさま混乱が生じた。従来の二分判金と新しい万延二分判金では、見た目こそ似ていても、金含有量が大きく異なるため、両替屋や商人たちは両者を厳密に区別する必要に迫られたのである。江戸・大坂・京都の主要都市では、両替屋が試金石を用いて金貨の成色を確認する光景が日常化した。試金石とは、金の純度を測定するための黒い石であり、金貨をこすりつけた痕跡の色で含有量を判定するものである。この検査の結果、万延二分判金の金含有量が従来品の約40%に過ぎないことが明らかになると、市場では激しい動揺が走った。万延元年11月から12月にかけて、江戸の金相場は1両あたり265匁(もんめ)から280匁へと急騰し、銀相場もこれに連動して変動した。庶民の日常生活にも大きな影響が及んだ。江戸の町民が両替屋で金貨を交換する際、従来は同じ「二分金」として扱われていたものが、突然「古金」(文政二分金)と「新金」(万延二分判金)に分別され、交換レートが異なるようになったのである。記録によれば、同じ「2分」の額面でありながら、古金10枚と新金11枚が等価とされたという。これは、新金の価値が実質的に約10%低いことを意味していた。一般庶民にとって、この事態は極めて理不尽に映った。幕府が公式に発行した金貨であるはずの万延二分判金が、市場で割引かれるという矛盾は、幕府の信用そのものを損なわせた。大坂の商人たちの記録には、「新金は銀同然の価値しかなし」「万延改鋳は百姓一揆を招く危険あり」といった悲観的な評価が綴られている。さらに、農村部では、万延二分判金の流入に伴い、物価上昇が加速した。米価は万延元年から翌年にかけて約20~30%上昇し、塩や醤油などの生活必需品も値上がりした。これは、金含有量の低い新金が大量に流通することで、実質的な通貨供給量が増加し、インフレーションが進行したためと考えられる。

第4章 — 短命な金貨の廃止と幕末経済の転換

明治初期の政府機関。古い金貨を回収する公告が掲示されている様子を描いた図

万延二分判金が市場に流通してからわずか9年後の明治2年(1869年)、新政府はこの金貨の廃止を宣言した。明治維新によって樹立された新政府は、古い江戸時代の金銀貨制度を一新し、新しい近代的な貨幣制度の構築を急いでいたのである。明治2年7月、政府は「旧金銀貨回収令」を発布し、すべての江戸時代の金貨・銀貨を新円への交換対象とした。この際、万延二分判金は、その金含有量の低さゆえに、従来の二分判金よりも低い評価額で交換されることになったと推定されている。具体的な交換レートについては、史料が限定的であり、諸説あるが、一般的には新金(万延二分判金)が古金(文政二分金)の約90~95%の価値で評価されたと考えられる。この差別的な扱いは、幕府の改鋳政策がいかに失敗であったかを象徴していた。明治政府の貨幣制度改革は、西洋の金本位制度を導入することで、日本経済を国際市場に統合しようとするものであった。明治4年(1871年)に施行された新貨条例により、日本は金1両=1.5gという新しい金本位制度へと移行し、万延二分判金を含むすべての江戸時代の金貨は、公式な流通手段としての地位を失ったのである。この転換は、近代貨幣の価値と見分け方を理解する上でも重要な分岐点となった。万延二分判金の廃止は、単なる古い金貨の整理ではなく、日本経済全体が江戸時代から近代へと転換する過程を象徴していた。幕末から明治初期にかけての激動の中で、万延二分判金は、幕府が直面した経済危機の深刻さ、そしてその危機に対する対応の限界を、その極端な金含有量の低下という形で後世に伝えているのである。現代の古銭研究者たちは、万延二分判金を「幕末経済危機の生きた証拠」として位置づけており、その歴史的価値は、単なる金貨としての相場を遙かに上回るものとなっている。

価値と希少性

万延二分判金の市場価値は、その状態と鑑定書の有無によって大きく異なる。一般的な流通品であっても80万円から150万円の相場が形成されており、未使用に近い美品では250万円を超えることも珍しくない。特に、後藤家の花押が鮮明に打刻された個体や、重量が正確に3.00gの精密鋳造品は、コレクターの間で高く評価される。希少性の観点からは、万延二分判金は数百万枚以上が鋳造されたと推定されるため、江戸金貨の中では比較的入手しやすい部類に属する。しかし、150年以上の時間経過の中で、多くが融解されたり、摩耗したり、偽造品に改鋳されたりしたため、現存数は著しく減少している。特に未使用品は極めて稀であり、鑑定機関によるグレーディングで「MS65」以上の評価を得た個体は、500万円から1000万円の値がつくこともある。古銭グレーディングの基準に従えば、万延二分判金は以下のように評価される:未使用品(MS60以上)は極めて稀で高値、極美品(AU55~AU58)は100万円~250万円、美品(XF40~XF45)は80万円~150万円、流通品(VF20~VF35)は50万円~80万円というのが目安である。市場での需要は安定しており、特に日本古銭の歴史を学ぶコレクターや、幕末経済史に関心を持つ研究者からの購入が絶えない。また、古銭オークションの基礎知識に基づく競売市場でも、万延二分判金は常に注目される品目である。ただし、偽物・加工品の見分け方に関しては注意が必要で、金含有量の低さゆえに、後世の加工や改鋳の対象となりやすい。信頼できる鑑定機関の評価を受けることが、購入時には不可欠である。

まとめ

万延二分判金は、単なる金貨ではなく、幕末という激動の時代が日本経済に与えた深刻な打撃の生きた証拠である。金純度22.97%、量目3.00gという極端な仕様は、開国による金銀比価の歪みに直面した幕府の絶望的な選択を物語っている。わずか9年間の短命に終わったこの金貨は、古い秩序の崩壊と新しい時代への転換を象徴する存在として、今なお古銭市場で高く評価されている。

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