
和同開珎 — 元明天皇の貨幣革命
708年、日本最初の全国通貨が奈良の都から経済を変えた
対象貨幣: 和同開珎
概要
和同開珎は、和銅元年(708年)に元明天皇の命によって鋳造が開始された、日本初の全国流通を目的とする公式貨幣である。その誕生の契機は、武蔵国(現在の埼玉県秩父付近)で銅が発見されたという吉報だった。朝廷はこの発見を「和銅(にぎあかがね)」と呼んで吉祥とし、元号を和銅と改元。その年の5月、本格的な鋳造が始まった。
和同開珎は、中国の唐が621年に発行した「開元通宝」をモデルに設計された方孔円形の銅銭で、「和同開珎」の四文字が鋳込まれている。銅銭に加えて銀銭も存在するが、銀銭は鋳造数が極めて少なく、現存するのは数十枚程度とも言われる超稀少品だ。古代貨幣の全体像と和同開珎の詳細図鑑もあわせて参照されたい。
流通を促進するため、朝廷は和銅4年(711年)に「蓄銭叙位令」を発布した。10万文以上蓄えた者に官位を授けるという前代未聞の政策であり、貨幣普及を国家的に後押しした。市場インデックスで相場を確認することで現代の古銭価格も把握できる。和同開珎は皇朝十二銭の第1番として、758年の万年通宝登場まで約50年間、日本の経済を牽引した。古銭グレーディングの基準を学べば、所蔵品の価値をより正確に評価できる。
基本スペック
- 額面
- 1文(文銭)
- 鋳造期間
- 和銅元年〜天平宝字2年(708年〜758年)
- 金属組成
- 銅銭・銀銭の2種
- 量目
- 約3.5g(銅銭)
- 寸法
- 直径約24mm
- 鋳造枚数
- 不詳(諸説あり)
- 鋳造責任者
- 不詳
- 市場相場
- 銅銭:数千円〜十数万円 / 銀銭:数百万円以上(状態・真贋鑑定による)
第1章 武蔵の銅山と元明天皇の決断 — 貨幣国家へのビジョン

慶雲5年(708年)正月、武蔵国の国司から朝廷へ一通の上申が届いた。「秩父郡にて銅が産出された」という知らせである。当時の朝廷にとって、銅は極めて重要な資源だった。仏像の鋳造、寺院の梵鐘、そして新しい都の建設——すべてに金属が必要とされていたが、国内での産出量は乏しく、中国からの輸入に頼らざるを得ない状況が続いていたのだ。
元明天皇はこの知らせに即座に反応した。元号を「和銅(にぎあかがね)」と改めるとともに、この天の恵みを活かして日本全国に流通する公式貨幣を鋳造することを宣言した。和銅元年(708年)5月、鋳銭司が設置され、本格的な貨幣鋳造が始まった。
それまでの日本にも「富本銭」(683年頃)など貨幣の試みはあったが、全国流通を明確な目的として国家が組織的に発行した貨幣は、和同開珎が史上初めてといってよい。元明天皇のビジョンは単なる銭の鋳造ではなかった。律令国家の整備とともに、税の徴収、官吏への俸給、都市建設の費用——これらすべてを銭で賄う「貨幣経済国家」を構築しようとする壮大な計画だったのである。
平城京への遷都(和銅3年・710年)はその象徴でもあった。藤原京から新しい都への移転費用、宮殿の建設、貴族や役人への褒賞——これらを銭で支払うことで、朝廷は財政を可視化し管理しようとした。和同開珎はそのインフラの要であり、元明天皇の「律令国家完成」という夢を支える道具だったのだ。
モデルとなった唐の開元通宝(621年発行)は、当時の東アジア世界で最も信頼された通貨であった。遣唐使を通じて中国の文物を積極的に取り入れていた奈良朝廷にとって、そのデザイン思想を踏襲することは自然な選択だった。方孔円形という形は「天円地方(天は丸く地は四角い)」という東洋哲学を体現し、国家の権威を象徴するものでもあった。こうして日本初の本格的な公式貨幣が歴史の舞台に登場した。穴銭の概説も参考になる。
第2章 銅銭と銀銭 — 二種類の和同開珎が語る身分社会

和同開珎には、銅銭と銀銭という二種類が存在する。これは後世の多くの人が気づかない事実だ。現在「和同開珎」として古銭商やオークションで目にするほぼすべては銅銭であり、銀銭は現存数十枚ともいわれる超稀少品である。
銀銭の存在が文献に記されたのは、和銅元年(708年)の詔が最も古い資料の一つとされる。銀銭は銅銭よりも一回り大きく、重量も重い。その価値は銅銭の数倍に設定されていたと考えられるが、詳細な換算レートは史料に明記されておらず、現代の研究者の間でも諸説ある。
銀銭が流通した期間は非常に短かった可能性が高い。銀はそもそも産出量が限られており、大量鋳造に向かない。また、銀の価値の高さゆえに、民衆の日常取引よりも、朝廷や上位貴族の儀礼的な支払いや対外貿易での使用が主だったと推測される。事実、正倉院に伝わる文書には銀銭に関する記述が散見されるが、地方の荘園関連文書にはほとんど登場しない。
現在、銀銭が確認されているのは国内外の博物館・美術館に保管されるものが中心で、一般市場に流通することはほぼない。仮に真正品が出品されれば、数百万円から数千万円に達することも想定される。古銭オークションの基礎知識を学んでおくことは、このような稀少品を前にした際に必須の知識となる。
一方、銅銭についても状態・鋳造地・時代によって価値は大きく異なる。鋳造当初のものは比較的字形が鮮明で、後期には模鋳(民間での模造鋳造)も増え品質のばらつきが見られる。奈良時代から平安時代初期にかけて、全国各地に地方の鋳銭所が設けられたとされ、それぞれで微妙に異なる鋳型が使われていたようだ。字体の違いや鋳造の精粗が古銭研究者にとっての重要な鑑定ポイントとなっている。古銭グレーディングの基準は、こうした評価の基礎を理解するうえで役立つだろう。
銀銭と銅銭の並存は、当時の階層社会を映し出す鏡でもあった。上位の貴族や官吏が銀で取引を行い、庶民は銅で日々の売買を営む——この二層構造は、律令制が目指した身分秩序と軌を一にしている。和同開珎は単なる経済ツールではなく、奈良時代の社会構造そのものを体現した歴史的遺物なのである。
第3章 蓄銭叙位令の衝撃 — 貨幣を積めば出世できる時代

和銅4年(711年)、朝廷は前代未聞の法令を発布した。「蓄銭叙位令」である。その内容は驚くべきもので、「一定量の銭を蓄えた者に、その額に応じて官位を授ける」というものだった。10万文以上を蓄えれば正八位下を授けるという具体的な数字まで明記された。
この政策は現代的な視点で見ると極めて巧妙な「量的緩和策」ともいえる。流通を促すため、政府が直接的なインセンティブを市民に与えたのだ。しかし実際の記録を見ると、蓄銭叙位令への反応はさほど高くなかったようだ。位を欲する者は確かにいたが、農村部では和同開珎が手に入ること自体が難しく、地方の一般民衆には縁遠い話だった。
律令体制の整った中央や畿内周辺では一定の流通が見られたが、東国・西国の末端部まで銭経済が浸透するには程遠かった。それでも、この政策が持つ歴史的意義は大きい。「銭を使うことで社会的地位が上がる」という価値観を国家が明示したことで、商業活動への認識が変わりはじめた。
奈良時代の都・平城京では、東西市場(東市・西市)が設けられ、銭による売買が行われていた。正倉院文書には、布一反が何文、油が何文という記録が残されており、銭による価格表示が実際に機能していたことが確認できる。農産物、絹織物、陶器、鉄器——これらが銭で売買されることで、物々交換とは質的に異なる市場経済の萌芽が生まれていた。
しかし、市の外では依然として「庸・調」(税として布や米を納める制度)が基本であり、銭経済はあくまで都市の現象に留まっていた。天平宝字2年(758年)に和同開珎の後継となる万年通宝が登場するまでの約50年間、この銭は日本の経済の最前線に立ち続けた。皇朝十二銭の嚆矢として、後の貨幣政策に多大な影響を与えた和同開珎の遺産は現代にも生き続けている。市場インデックスで価格動向を見ることで古銭市場の現在地も確認できる。
第4章 皇朝十二銭の開幕と和同開珎の遺産

天平宝字2年(758年)、後継の万年通宝が発行され、和同開珎は表向き引退の時を迎えた。しかし実態は異なる。万年通宝はすぐには普及せず、民間では旧来の和同開珎が長く使われ続けた。以後も神功開宝(765年)、隆平永宝(796年)と皇朝十二銭は続くが、どれも和同開珎ほどの社会的インパクトを持つことはなかった。
皇朝十二銭の最後は、天慶6年(943年)に発行された乾元大宝である。それ以降、日本では独自の官製銭の鋳造が途絶える。10世紀後半から16世紀末まで、約600年にわたる「銭貨空白期」が訪れるのだ。この空白を埋めたのが、中国から輸入された宋銭や明銭、そして朝鮮通宝などの渡来銭だった。渡来銭・穴銭の詳細を見ると、この空白期の経緯がより深く理解できる。
江戸時代に入り、寛永13年(1636年)に寛永通宝が正式に発行されるまで、日本独自の公式通貨は事実上存在しなかった。その意味で、和同開珎が切り拓いた「国家公認の流通通貨」という概念が復活するのに、実に900年以上の歳月を要したことになる。
現代の日本において、和同開珎は古銭コレクターの間で根強い人気を誇る。特に保存状態の良い銅銭は、数万円から十数万円で取引されることも珍しくない。銀銭に至っては出物がほとんどなく、博物館でしか目にできない「幻の存在」だ。真贋鑑定においては、字体の形状・鋳肌の質感・重量・直径が重要な判断基準となる。模鋳銭(後世の民間鋳造品)も多数存在するため、古銭グレーディングの基準を十分に理解した上で信頼できる専門家の鑑定を仰ぐことが肝心だ。
和同開珎が生まれた和銅元年(708年)から数えて、2026年は1318年目を迎える。奈良の都で打ち出されたあの小さな銅の円盤は、今もなお収集家の手を渡り、歴史の温度を伝え続けている。日本の経済史を語る上で、この「最初の一枚」が持つ意味は決して色あせることがない。
価値と希少性
和同開珎の市場価値は、種類・状態・真贋によって大きく幅がある。もっとも流通量が多い銅銭でも、保存状態が良好で字体が鮮明なものは数万円から十数万円の値がつく。特に奈良時代初期の鋳造と鑑定されるもの、字体の美しさが際立つもの、銹の状態が良く地金の質感が残っているものが高評価を受ける傾向にある。古銭グレーディングの基準を学ぶことが正確な評価への第一歩だ。
銀銭については別次元の希少性を持つ。現存確認数は世界合計でも数十枚程度とされており、博物館収蔵品がほとんどだ。仮に真正品が一般市場に出れば、数百万円から数千万円の価格もあり得る。しかし、それゆえに精巧な偽物も存在し、専門的な鑑定なしに購入するのは極めて危険である。
銅銭においても模鋳銭(後世に民間で鋳造された模倣品)が多く出回っており、見分けには経験が必要だ。古銭オークションの基礎知識で競売の仕組みを理解し、信頼できるオークションハウスを通じた取引が推奨される。和同開珎は日本最古の全国通貨として歴史的・文化的価値が高く、近年は国内外の博物館・研究機関からの関心も高まっている。
まとめ
和同開珎は、和銅元年(708年)の誕生から天平宝字2年(758年)の引退まで、約50年間にわたって日本初の「貨幣国家」を支えた。その遺産は単なる銅の円盤に留まらない。「国家が貨幣の価値を保証する」という概念、「銭を積めば位が得られる」という経済的インセンティブの発想、そして方孔円形という東アジア共通の貨幣形態の採用——これらすべてが、後の日本の経済制度の礎となった。現代の収集家が和同開珎を手にするとき、そこには1300年以上の歴史が凝縮されている。元明天皇の決断、平城京の市の喧騒——あの小さな穴のあいた銅の円盤が、過去と現在をつなぐタイムカプセルとして今も輝き続けているのである。
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Ancient Japanese Coins Tour
Part 2 of 5 in this series
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