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天保通宝 — 楕円形の大型銅銭、当百文の刻印と幕末日本の財政危機を物語る一枚
穴銭古銭ストーリー2026年4月29日

天保通宝 — 財政危機が生んだ「当百銭」の野望と贋造の嵐

江戸後期の飢饉と幕府財政難が産んだ異形の楕円銭、40年の波乱と終焉

対象貨幣: 天保通宝

概要

天保通宝は天保6年(1835年)に鋳造が始まった楕円形の銅銭で、額面は当百文——寛永通宝1枚の100倍に相当するとされた。しかし実際の銅含有量は寛永通宝100枚分には遠く及ばず、幕府が財政難の打開策として生み出した「信用の水増し」であった。

鋳造背景にある天保の飢饉(天保4〜10年=1833〜1839)は、東北・関東を中心に甚大な被害をもたらし、幕府の救済財源は枯渇しつつあった。当百文という破格の額面は、少量の銅で多くの価値を生み出す発想の産物だったが、その歪みはすぐに表面化した。

水戸藩主・徳川斉昭が諸藩への先例を開いたことで、天保通宝の鋳造許可は各地の藩に波及した。藩鋳品の品質格差と全国的な贋造の蔓延が加わり、江戸後期の庶民経済は混乱した。明治9年(1876年)の通用禁止まで実に40年以上にわたって流通し続けた天保通宝は、幕末から明治への経済移行期を生き延びた「最後の江戸銭」のひとつである。

本稿では天保の飢饉と財政危機、水戸藩の役割、天保の改革との関係、そして贋造が引き起こした穴銭体制の動揺までを、史実に基づいて物語形式で辿る。

基本スペック

額面
当百文(実勢価値は地域・時期により変動)
鋳造期間
天保6年〜明治9年(1835〜1876)
金属組成
銅(一部真鍮・鉄製あり)
量目
約20.3g(目方5匁3分、諸説あり)
寸法
縦約49mm × 横約33mm(楕円形)
鋳造枚数
数十億枚以上(推定)。幕府鋳・藩鋳・贋造品を含む
鋳造責任者
江戸幕府銭座(後に水戸藩ほか諸藩銭座)
市場相場
通常品1,000円〜1万円。水戸銭初期極美品・特殊バリエーションは10万〜50万円以上

天保の飢饉と財政危機 — 「当百銭」誕生の前夜

天保の飢饉 — 江戸後期の農村荒廃と幕府財政危機を描いた歴史的情景

天保4年(1833年)から始まった天保の大飢饉は、江戸期最大規模の凶作として記録される。東北・北関東の農村では米の収穫が平年の数分の一に激減し、餓死者は数万人にのぼったとも伝わる(諸説あり)。出稼ぎを求めて農村を去った流民が江戸・大坂に流れ込み、都市の治安も悪化した。

幕府の財政はこのとき、すでに危機的状況にあった。11代将軍徳川家斉の50年に及ぶ治世は「大御所時代」とも呼ばれ、豪奢な文化は栄えたが財政は慢性的な赤字に陥っていた。大奥費用・大名への接待費・寺社普請費が重なり、飢饉対応の救済費はその上にのしかかった。

天保7年(1836年)には松前藩と三河加茂で一揆が発生し、翌天保8年(1837年)には大坂で元町奉行所与力・大塩平八郎が武力蜂起した。大塩の乱は一日で鎮圧されたが、幕府の統治能力への不信感を社会に広く植え付けた。

こうした危機の解決策として浮上したのが、額面価値を大きく引き上げた新銭の発行である。当時流通していた寛永通宝(一文銭)の100枚分の価値を1枚で代替できるならば、銅の消費量は節約でき、差益を財政に充当できる。天保6年(1835年)、江戸の銭座(深川)での試作を経て、天保7年(1836年)に本格鋳造が開始された。縦約49mm×横約33mmの楕円形は、円形の寛永通宝との区別を意図した形状とされ、庶民はこの大型銭を「饅頭銭(まんじゅうぜに)」と呼んだ。

銅の実重量は額面(当百文)の名目価値に遠く及ばず、この乖離が後の贋造蔓延の温床となった。幕府は差益を財政補填に充当したが、信用なき高額面銭の発行という矛盾は、以後の天保通宝をめぐる混乱の根因となった。

水戸藩の先例 — 徳川斉昭が開いた「藩鋳」の扉

水戸藩の銭座 — 徳川斉昭の命による天保通宝鋳造の工房、江戸時代の職人の様子

天保通宝が幕府主導で鋳造を始めて間もなく、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が藩内での鋳造許可を幕府に申請した。尊王攘夷思想の旗手として知られる斉昭は、同時に水戸藩の財政立て直しに腐心した現実主義の行政者でもあった。水戸藩は三十万石の名門でありながら慢性的な財政難にあり、独自の収入源を必要としていた。

斉昭の申請は許可に至り、天保7〜9年(1836〜1838年)の間に水戸藩銭座での鋳造が始まったとみられる(正確な許可時期は諸説あり)。水戸で鋳造された天保通宝は「水戸銭(みとせん)」として流通し、書体の端正さと品位の高さから一定の信頼を獲得した。

水戸藩の先例は、財政難を抱える他藩への許可拡大の呼び水となった。仙台藩・盛岡藩(南部藩)・加賀藩・薩摩藩など複数の藩が鋳造許可を申請し、幕府は所定の上納金と手続きを条件にこれを認めた。幕末にかけて許可を得た藩は十数藩以上に及んだとされる。

藩鋳が広がるにつれ、流通する天保通宝の品質は著しくばらつき始めた。規定の重量(目方約5匁3分)に満たない軽量品、銅の純度が基準を下回る粗悪品が記録されている。幕府は重量規制を設けていたが、遠隔地まで管理が行き届かなかった。収集界ではこの時代の水戸銭がとくに珍重される。斉昭治世下の初期水戸銭は書体の美しさで知られ、保存状態の良い極美品は現代の市場でも高い評価を受けている。

水戸銭初期品は銅の品位と書体の端正さで定評があり、後発の藩鋳品や贋造品とは重量・書体ともに明確に区別される。この品質格差が、現代の収集市場における水戸銭プレミアムの根拠となっている。

天保の改革と天保通宝 — 水野忠邦の攻防

天保の改革時代の江戸 — 水野忠邦による倹約令と株仲間解散が混乱をもたらした江戸の商業地

天保12年(1841年)、老中首座・水野忠邦は「天保の改革」を断行した。倹約令・風俗取り締まり・株仲間の解散が三本柱で、特に株仲間の廃止は物価安定策として打ち出された。当時の江戸は豊かな商人層と困窮した農民層の落差が社会不安の温床となっており、幕府は何らかの手を打たざるをえなかった。

水野が目指したのは「物価の安定」であった。しかし商人組合・株仲間の解散は流通機能の混乱を招き、かえって物価が不安定化した。天保通宝の大量流通もこの時期の混乱に拍車をかけた。額面100文と寛永通宝100枚が建前上等価であっても、実勢は地域によって90文相当〜100文相当とばらつき、商取引の計算が複雑になった。

天保の改革が抱えた本質的矛盾は、財政赤字の解決手段として「通貨価値の水増し」を黙認しながら、その結果生じる物価上昇を別の手段で抑えようとした点にある。改革の通貨政策は根本的な解決に踏み込めなかった。

天保14年(1843年)、水野は上知令——江戸・大坂周辺の大名・旗本領を幕府直轄地に切り替える政策——をめぐる大名・旗本の激しい反発を受けて失脚した。天保の改革はわずか2年余で頓挫し、株仲間も復活した。以後の幕府政治は一貫した指導力を欠いたまま嘉永・安政・文久の時代へと流れた。天保通宝の鋳造は幕末期まで続き、流通する銭の品質と量は乱立状態のまま明治を迎えることになる。

水野失脚後の幕府は財政政策の一貫性を失い、安政・文久各年間を通じて場当たり的な銭座拡張と品位切り下げが続いた。天保通宝の乱発はこの政治的迷走の産物でもあり、幕末経済混乱の一端を形成した。

贋造の嵐と明治の終幕 — 当百銭の40年

幕末の銭屋 — 天保通宝・寛永通宝が混在する両替店と贋造銭の取り締まり

天保通宝が最も深刻に抱えたのは贋造の蔓延という問題である。額面100文という高い名目価値は、粗悪な銅で製造しても大きな差益が得られることを意味した。江戸後期から幕末にかけて、農村の鋳物師・無許可業者らが秘密の銭座を設け、重量不足・品位不足の贋造天保通宝を製造・流通させた。

幕府は贋造取り締まりの高札を各地に立て、発覚した贋造者には厳罰を科した。しかし発覚は困難で、産地の特定も難しかった。藩鋳品と贋造品は外見上区別しにくい場合も多く、商人・庶民は手に取った天保通宝の重量や書体を自ら確認する知識を求められた。「真贋の不透明さ」が天保通宝全体への不信感を高めていった。

寛永通宝にも贋造が及んでいた。天保通宝との混用が常態化した江戸後期の銭貨流通は著しく複雑になり、大坂の両替屋や江戸の銭屋では天保通宝の実勢換算レートを独自に設定する慣行が生まれた。「建前の100文」と「実勢の○文」の乖離が日常のものとなった。

明治2年(1869年)以降、新政府は近代的な貨幣制度の構築を急いだ。しかし旧来の銭貨回収は膨大な作業を要し、当面は天保通宝・寛永通宝の流通を許容せざるをえなかった。明治9年(1876年)、政府はついに天保通宝・寛永通宝ともに通用禁止を宣言し、40年の天保通宝の歴史に幕が下りた。江戸時代の三貨制度を支えた銭貨体系は、天保通宝の乱発によって根底から揺らぎ、近代貨幣制度への移行を促した。

価値と希少性

現代の収集市場における天保通宝の価値は、種類の多さによって大きく異なる。幕府鋳の通常品・並品は1,000円前後から入手できるものもあり、古銭入門者にとって身近な存在である。一方、特定の種類・産地・状態の品は驚くほど高い評価を受ける。

最も高値で取引されるのは「水戸銭」の初期鋳造品である。徳川斉昭治世下の初期水戸銭は書体が端正で均整がとれており、極美品(AU〜UNC相当)は30万〜100万円以上の価格で落札される例がある。次いで「仙台銭」「南部銭(盛岡)」「薩摩銭」など特定の藩鋳品が高評価を受ける。

幕府鋳においても「書体バリエーション」が収集対象となる。「長郭(ちょうかく)」「短郭(たんかく)」「大字」「小字」などの細分類があり、中には現存数が十数枚と推定される極希少品もある。こうした特殊種は50万円を超える場合があり、専門の鑑定書付きの個体は市場での信頼性が高い。

注意点として、天保通宝は偽物・粗悪品が多い銘柄でもある。江戸時代からの「古贋造」と、近代以降に作られた「新贋造」の両方が存在する。本物かどうかの見極めには重量・書体・鋳造痕のパターンについての専門知識が必要であり、初心者は日本貨幣商協同組合員の専門店での購入を推奨する。

投資観点では通常品の値上がり期待は薄い。しかし水戸銭極美品・藩鋳希少種は供給が限定されており、長期保有の価値を持つ。バリエーション探求の奥深さを楽しむ「深掘りコレクション」として、天保通宝は江戸銭の中でも唯一無二の魅力を持つ銘柄である。オークション相場では種類を明記した出品が多く、落札価格の差が種類の希少性を如実に反映している。

まとめ

天保通宝は、天保の飢饉と幕府財政危機という不純な動機から生まれながら、日本の庶民経済に40年以上寄り添った。水戸藩の先例が開いた藩鋳の扉、天保の改革の挫折、そして贋造の嵐が示す「信用なき通貨の末路」——楕円形の大型銭一枚に、近世日本の経済的苦悩が凝縮されている。

収集の観点では、水戸銭初期品・藩鋳希少種が長期保有に値する実力を持つ。通常品は安価に入手でき、バリエーション探求が醍醐味となる銘柄でもある。幕末経済史の生き証人として、天保通宝は今も多くの古銭愛好家を魅了し続けている。

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