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title: "The Transition of the Imperial Twelve Coins — From Wadō Kaichin to Kengen Taihō"
url: "https://ittendo.com/en/story/kocho-junisen-quality"
site: "ITTENDO"
type: "story"
coin: "皇朝十二銭の品質変遷"
category: "古代銭"
published: "2026-08-02T08:01:51.488Z"
updated: "2026-08-02T08:01:51.488Z"
lang: "en"
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# The Transition of the Imperial Twelve Coins — From Wadō Kaichin to Kengen Taihō

> A 250-Year Tale of Lost Quality and Trust

## 諸元

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| denomination | 不定（諸説あり） |
| period | 708年〜958年 |
| metal | 銅、銀、鉛（時代により変化） |
| weight | 4g前後（和同開珎）〜不定（乾元大宝） |
| size | 不明（諸説あり） |
| mintage | 不詳（諸説あり） |
| designer | 不明 |
| market | 数万円〜数十万円（状態による） |

## 概要

日本の古代貨幣「皇朝十二銭」は、708年の和同開珎の鋳造から958年の乾元大宝まで、250年にわたる変遷を経て、日本の経済史に深い影響を与えました。和同開珎は重量4g前後、銅の純度が比較的高く、当時の経済基盤を支える重要な役割を果たしました。しかし、元号を重ねるごとに、その品質は低下し、最終的には乾元大宝の鋳造精度は著しく低下しました。鋳造枚数も初期には多かったものの、後期には激減し、この品質低下が流通忌避、すなわち撰銭の原型を生むに至ったのです。この貨幣の変遷は、当時の政治的背景や技術革新、そして民衆の生活にどのように影響を及ぼしたのかを探ります。[和同開珎の詳細な解説](/coinpedia/kodai-002-wado-kaichin)を参照しながら、古代貨幣の魅力を再発見しましょう。

## 第1章: 和同開珎の誕生 — 経済基盤の構築

708年、元明天皇の治世において、全国流通を目指した最初の銭貨・和同開珎が発行されました（図録）。この貨幣は、奈良の平城京で鋳造され、当時の日本における中央集権化を象徴するものでした。和同開珎は重量4g前後で、銅の純度が高く、当時の先進的な技術を駆使して製造されました。この時代、藤原不比等を中心とした政府は、律令制度の整備を進め、経済の基盤を強化するために貨幣の導入を図りました。和同開珎の発行は、唐の開元通宝に倣ったもので、その意図は中央政府の権威を示すと共に、商取引の活性化を促進することにありました。

しかし、実際の流通は思うように進まず、貨幣経済の浸透は難航しました。貨幣が浸透しない背景には、物々交換が依然として主流であったことや、貨幣そのものの供給が不十分であったことが挙げられます。さらに、貨幣の鋳造枚数は初期に多かったものの、その後の元号を重ねるごとに重量や品位が低下する傾向が見られました。例えば、和同開珎の銅の純度は高かったものの、後の貨幣ではこの純度が低下し、鋳造精度も劣化していきました。乾元大宝（958年）に至っては、前期の貨幣に比べ鋳造精度が著しく低いとされます。このような品質の低下は、貨幣の流通忌避を生み出し、撰銭と呼ばれる良貨選別の原型となったと考えられています。

この時期の貨幣流通は、中央政府の政策と民衆の生活実態との間に大きなギャップが存在したことを示しています。さらに、貨幣経済を支えるための制度的な基盤も未熟であり、政府が意図した通りに経済基盤を構築することは容易ではありませんでした。[古代貨幣の概説と魅力](/coinpedia/kodai-001-overview)も併せてご覧ください。

## 第2章: 鋳造技術の変遷 — 品質低下の始まり

和同開珎から始まった皇朝十二銭の歴史は、時代を経るごとに鋳造技術と品質の変遷を示しています。最初の和同開珎は、高い純度の銅を用いて製造されましたが、時が経つにつれて、銅の供給が不足し始め、銀や鉛を混ぜるようになりました。このため、天平宝字銭（760年代）や神功開宝（760年代後半）といった後続の貨幣は、次第にその品質を落としていきました。特に、乾元大宝が発行された958年には、その鋳造技術は著しく劣化していました。鋳造地は、当初の平城京から、より地方へと分散され、これが品質のばらつきを生む一因となりました。また、鋳造関係者にも変化があり、当初の熟練した工人たちが次第に減っていったことも、品質低下に拍車をかけたとされています。こうした背景には、長期にわたる政治的不安定や戦争、内紛などが影響していると考えられます。これにより、流通する貨幣は次第に信頼を失い、民衆から忌避されるようになっていったのです。[江戸金貨の種類と見分け方](/coinpedia/edo-gold-001-overview)と比較してみると、その技術的発展の過程がより鮮明に理解できるでしょう。

## 第3章: 流通の実態と撰銭の原型 — 民衆の反応

皇朝十二銭が日本で流通し始めた当初、その価値は高く評価されていました。しかし、時代が進むにつれて、貨幣の品質が低下し始めると、民衆の反応は次第に冷ややかなものとなっていきました。特に乾元大宝に至っては、その鋳造精度の低さから、民衆の間で流通が忌避されるようになりました。この流通忌避は「撰銭」と呼ばれ、品質の良い銭と悪い銭を選別する行為として浸透しました。この現象は、貨幣経済における信頼の欠如を如実に表しています。流通の停滞は物価の変動を引き起こし、交換レートが不安定になるなどの問題を引き起こしました。例えば、ある地域では穀物の取引において、貨幣ではなく米が再び主要な取引手段として使われるようになるなどの影響が見られました。中央政府はこれに対抗するため、再鋳造や貨幣の回収を試みましたが、効果は限定的であったとされています。このような経済環境の中で、民衆は貨幣に対する信頼を取り戻すことが難しくなっていったのです。[穴銭の種類と見分け方](/coinpedia/ana-sen-001-overview)も参考に、貨幣の流通とその影響をさらに掘り下げてみましょう。

## 第4章: 後世への影響と評価 — 皇朝十二銭の遺産

乾元大宝を最後に、皇朝十二銭の歴史は幕を閉じることとなりましたが、その影響は後世にまで及びました。この時期の貨幣政策の失敗は、日本の経済史において重要な教訓となり、後の貨幣制度に大きな影響を与えました。例えば、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、貨幣の鋳造がほとんど行われず、物々交換が再び主流となりました。その後、江戸時代に入り、再び貨幣が鋳造されるようになると、品質管理が厳格化され、信頼性の高い貨幣が流通するようになりました。このように、皇朝十二銭の失敗は、後の貨幣政策の基礎を築く上での反面教師となったのです。また、皇朝十二銭は、当時の政治的、経済的な状況を知るための重要な手がかりとして、歴史研究の対象となっています。特に、銅の供給問題や鋳造技術の変遷などは、当時の日本社会の技術的な限界と政治的な課題を浮き彫りにしています。このように、皇朝十二銭は単なる貨幣としての価値を超え、歴史的な意義を持つものとして評価されています。[記念硬貨の種類と特徴](/coinpedia/kinen-002-overview)も併せてご覧いただき、貨幣の歴史的価値をさらに深く理解してみてください。

## 価値と希少性

皇朝十二銭は、その長い歴史と製造過程における複雑さから、現在のコレクター市場で非常に高い価値を持っています。特に、初期の和同開珎は高い銅の純度と鋳造精度から非常に珍重されており、良好な状態で残っているものは数十万円で取引されることもあります。一方で、乾元大宝のような後期の貨幣は、その品質の低さから評価が分かれますが、歴史的価値を見いだされることもあり、状態によっては高値がつくことがあります。これらの貨幣は、当時の技術や経済的背景を反映しているため、単なる収集品としてだけでなく、歴史的資料としての価値も高く評価されています。市場での取引は、状態や希少性に大きく依存しており、特に表面に明確な刻印が残っているものは、コレクターにとって非常に魅力的です。[古銭オークションの基礎知識](/coinpedia/basics-007-auction)を参考に、これらの貨幣の市場動向を把握し、収集や投資の一助としてください。

## 結び

皇朝十二銭の歴史は、単なる貨幣の変遷にとどまらず、日本の政治、経済、技術の変化を映し出す鏡としての役割を果たしています。和同開珎から乾元大宝に至るまでの250年間は、品質の低下と共に流通の困難をも招きましたが、その失敗は後世への貴重な教訓として受け継がれました。この貨幣の物語は、当時の日本が直面した課題や、中央集権を目指した政治的動機を理解する鍵となります。現代においても、これらの古代貨幣は、収集家や歴史研究者にとって貴重な財産であり続けています。こうした歴史を学ぶことで、私たちは未来への洞察を得ることができるのです。
